第六話



海の中で、外のことを何も知らずに育っていた人魚姫。
でも人魚姫はある嵐の日、助けた王子様に恋をした。
その時から、人魚姫の生活は大きく変わってしまった。
魔女から声と引き換えに人間になる薬を貰い、人魚であることを捨てた人魚姫。
その恋が叶わなかった時に、身体が泡となってしまうと分かっていながら。
人魚姫は王子様と話すことは出来なくても、傍に居ることはできた。
けれども王子様は別の姫君に恋をしてしまう。すれ違いと、勘違いで。
その姫君と王子様の結婚が決まり、その前夜、人魚姫は姉たちから聞かされる。
王子を殺せば、自分が人魚に戻れることを。
けれども、彼女は愛しい人の命と引き換えに自分が生き長らえることを選ばなかった。
姉たちから差し出されたナイフを、彼女は海へと捨てた。
そして彼女もまた、同じように海の中へと自らの身を投げる。
王子のために自分の命を捧げることを決めた人魚姫。
そして人魚姫の身体は、海の泡へと変わってゆく・・・

開かれた絵本に描かれた光景を、テュービュラーはひとつひとつ受け入れる。
ミュゼットは一緒に絵本を開き、ページをめくる。
そして最後のページを・・・テュービュラーに読み聞かせた。
その光景は本当に、幼い娘と、母親のようだった。
「消えてしまったと思った自分は、軽くなって空へ浮いていました・・・
 人魚姫は空気の娘となったのです・・・目の前には、王子様たちの姿も見えます」
「・・・空気の、娘」
ミュゼットの朗読に、テュービュラーはひとつひとつ反応を返す。

「王子様にはお姫様の姿はもう見えませんでした・・・
 けれども、王子様は優しいそよ風を確かに感じました」

それは、テュービュラーがあの夢の中で聞いた・・・ミュゼットの言葉だった。
あの時の声は、この絵本を朗読していたのだ。
幸せそうに笑っていた、人魚姫の姿を。
空気の娘となって、王子様の傍にこれからも居られることになった人魚姫。
そよ風として王子の傍に居て、優しく包み込む存在となったのだ。
これからも王子様を優しく守る存在に・・・。

「愛しい人のために生きることが、人魚姫の幸せ?」
テュービュラーがそう言うと、ミュゼットは頷いた。


テュービュラーは立ち上がり、窓を大きく開く。
その顔にもう迷いはなかった。
「なんだか頑張れそう・・・魔族の私が馴染めるのか、不安はないわけじゃないけど」
けれどもテュービュラーは笑顔だった。
窓の下に、子供たちは今日もシャボン玉をやっているのが見える。
クラーリィがいないけれど、自分たちで集まってやっているようだ。
子供たちの声が聞こえる。
シャボン玉は、誰でも出来る入門魔法なのだと・・・。

その時、ミュゼットが優しく言った。
「私の大切な人・・・大切な人のために一生懸命生きてた・・・
 魔族だけど、そんなことは関係ないの・・・大切な人のために生きてた・・・」
「ミュゼットさんの・・・大切な人?」
「うん・・・とても昔の出来事・・・けれども彼女は、最期まで幸せそうに笑っていた・・・
 大切な人のために生きられたのが幸せだって、笑ってた」
ミュゼットは懐かしそうに語る。
それはとても遠い昔の出来事のように、テュービュラーには思えた。
魔族と人間が理解し合い始めたのは、ごく最近のことなのに・・・

「それは、魔族も人間も変わらないの・・・一番、大切なこと・・・」
テュービュラーの心に、リコーダーが目指しているものがよぎった。
魔族と人間が共に理解し合って暮らす、新しい世界。
きっとリコーダーは、それを求めているのだろう。

「大切な人のために・・・」
「そう・・・人魚姫も、その人も、大切な人のために生きてたから・・・幸せだったの」

ミュゼットは微笑み、テュービュラーも同じように笑顔を返した。

自分も同じように、生きていることがとても幸せだと思えるように。
そして、生まれてこられてよかったと思えるように。
そう願いながら・・・絵本を閉じた。



その夜、クラーリィがテュービュラーの部屋を訪れた。
少しでもスフォルツェンドに早く馴染んでもらいたいと思っているクラーリィは、
朝食の時に『これからどうする予定か』と訊かれたテュービュラーが困惑していたことに気づいていた。
なのでそれを心配してクラーリィはやってきたのだが・・・
テュービュラーの表情は明るく、クラーリィはほっとした。

そして、クラーリィにテュービュラーは言う。
「クラーリィさんは凄いです・・・」
「どうしたんだ?いきなり」
クラーリィは少し驚いて、不思議そうに尋ねる。
「大怪我をして体が不自由になっても、大神官を続けてる・・・
 意志、とても強いと思います・・・だから、凄いです」
テュービュラーがそう言って微笑むと、クラーリィも微かに笑った。
照れているのだな、とテュービュラーはそれを分かることができた。
あの日目を覚ました時よりもずっと、クラーリィやミュゼットたち、
人間たちの感情がよくわかる気がした。

「ああ・・・スフォルツェンドとスフォルツェンドに住む大切な人たちを守りたいから、
 だから今までこうやって続けてこられたんだろうな・・・」
クラーリィは呟く。
「でも、今までの長い間に、迷って悩んだことがあった?」
と、テュービュラーは尋ねる。
するとクラーリィは頷いた。

「あの戦いの後義手義足になって、もう前のように戦えなくなった・・・
 大魔王を倒したから大きな軍隊も必要なくなって、
 この国の制度も王政から民主主義の法治国家に変わって、
 スフォルツェンド魔法兵団の規模は大幅に縮小されたんだ・・・」
「・・・」
テュービュラーはまだ自分が生まれる前の出来事を、想像する。
ピンとは来なかったが、理屈的には理解できた。
「リハビリをしながら、これからどうしようかと悩んだこともある・・・
 前のように動かせない体、弱った法力、戦いを終えた兵団・・・
 今までスフォルツェンド魔法兵団の最前線で戦う総隊長として生きてきたけれど、
 それがこれからの生活では全く当てはまらなくなったからな」
「・・・大魔王ケストラーを倒して、生活が大きく変わったんですね」
魔界軍に居た自分。今はスフォルツェンドに居る自分。
それと同じくらい、クラーリィも生活が変わったのだ。
テュービュラーにはそれがとてもよく分かった。
けれどもクラーリィは続ける。

「・・・ああ、大きく変わった・・・けれども、変わらないものがあった・・・
 スフォルツェンドを守りたいという気持ちは変わらなかったんだ・・・
 だからこれからも大神官を続けていこうと思った・・・
 自分の後も国を守ってくれる大神官になってくれるような存在を育てていきたい」

クラーリィの言葉のひとつひとつから、スフォルツェンドへの思いが伝わってきた。
「・・・やっぱり、クラーリィさんは凄い」
思わず呟くテュービュラー。
すると、クラーリィは言った。

「自分だけの力でそう思ったわけじゃないんだ・・・
 そしてそれを後押ししてくれた、支えてくれた人たちがいた」

「・・・クラーリィさんにも、いた?」
テュービュラーは今日の昼の自分と、昔のクラーリィを重ねる。

「そうだ・・・だから自分は全然寂しくないんだ、独りじゃないんだ・・・
 大切なことを教えてくれる奴らが、傍に居るからな」


クラーリィの言葉に、テュービュラーは微笑んだ。
あの時の言葉の意味が、ようやくわかった気がした。





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