第四話



カデンツァが再度、テュービュラーの診察に訪れた。
体力が回復しているか確かめたかったとのこと。

そして、カデンツァは・・・テュービュラーの部屋の机の上に、一冊の絵本を見つけた。

「人魚姫・・・?」
「・・・はい」
テュービュラーは頷く。
「どうだった?このお話」
カデンツァが尋ねると、テュービュラーは首を横に振った。
「・・・まだ、読んでない・・・なんだか、読むのが怖い」

カデンツァはテュービュラーの表情と、表紙の絵の人魚姫の表情を見て・・・
なにやら複雑そうな顔をして、言った。
「まあ、気が向いたら読んでみてね・・・悲しいけど、いいお話だから・・・
 私が知ってる童話の中で一番悲しいと思う・・・けど、悪いお話じゃないわ」
カデンツァは絵本を手に取り、表紙を眺めた。
「一番悲しい?何故?」
テュービュラーはカデンツァに尋ねる。
するとカデンツァは、静かに答えた。

「子供向けのおとぎ話ってね、大体悪役がはっきりしてるのよ・・・
 継母とか、魔女とか、狼とか・・・悪役らしい悪役がいるでしょう?
 でも、人魚姫は違うわ・・・特に悪い人は、いないの」

「いない・・・?」
「魔女は人魚姫から声を奪ったけれど、それは彼女を人間にするという大変な大仕事の報酬だから
 あくまでそれは交換条件、お姫様を苦しめるためじゃない・・・
 王子様も人魚姫を裏切ったわけじゃない、勘違いして別の人を好きになってしまっただけ・・・
 隣の国のお姫様も、人魚姫から王子様を奪ったわけじゃない・・・
 彼女は誰かの悪意でああなったわけじゃない・・・だから余計に、悲しいのだと思うわ」
カデンツァの言葉を、テュービュラーは静かに聞いていた。
そして、呟く。

「やっぱり、人魚姫はなんのために人間になったのか、わからない」

「・・・」

「人魚で居るのが嫌だから人間になって、でも人間になっても何も得られなくて、
 最後は泡になって消えた!彼女が人間になった意味、あったんですか!?」

テュービュラーの泣き叫ぶような問いに、カデンツァは何も答えない。
人魚姫に自分を重ね合わせているということがわかったからだ。
魔族として人殺しにまた身を投じるのが嫌で、天使ケストラーとリコーダーの力で人間の味方になり。
けれども完全に人間ではなく、人間の心には未だに分からないことが多く、
そして・・・何をすればいいのか、わからない。
彼女は、泡になって消えるのが怖い。
人間になったことが何の意味も成さずに消えていくのが怖い。
だから、あの絵本を未だに開けずにいるのだ。
泡となって消えていく人魚姫の映像を、鮮明に植え付けられてしまったら・・・
・・・きっと不安はさらに膨らみ、いつかは爆発するかもしれないから。

「・・・人魚姫は、人間になったことを悔やんではいなかった・・・
 それだけは、教えておくわ」
カデンツァはそうテュービュラーに告げると、部屋を出て行った。


カデンツァが廊下から外を見ると、また今日も空へとシャボン玉が舞い上がり、消えてゆく。
その美しくも儚い光景。
人魚姫と同じ・・・すぐ消えてしまう、泡。

人魚姫が人間になった意味は、本を開けばいつかは見つかるだろうけれど・・・
あの子には本を開く後押しが必要なのだと、カデンツァは思う。

「カデさん、久しぶり!」
明るい声に、カデンツァが振り返ると・・・ミュゼットが立っていた。
「ミュゼットちゃん・・・」
「どうしたのカデさん、元気ないわ・・・・」
心配そうに尋ねるミュゼットに、カデンツァは言った。

「あの子と一緒に本を開いてあげて・・・
 子供に絵本を読み聞かせる母親のように、あの子と一緒に本を・・・」

カデンツァの言葉に、ミュゼットは暫く黙っていたが・・・
やがて、一度、深く頷いた。




夕方。
テュービュラーはいつの間にか眠っていたらしく、ベッドで目を覚ました。
「・・・あ」
目を開けると向こうに、二人の人影が見える。
クラーリィと、ミュゼットだった。

「起きたのか?」
「・・・・」
黙って頷くテュービュラー。
「テュービュラーちゃん、何か飲む?」
「・・・はい」
テュービュラーが小さく頷くと、ミュゼットはぱたぱたと部屋を出て行った。
部屋には、テュービュラーとクラーリィが残される。


「具合はどうだ?」
クラーリィに尋ねられ、テュービュラーはまた小さく頷く。
・・・クラーリィの表情は、とても穏やかだった。
その表情を見て、テュービュラーは泣きたくなる。

「・・・ごめんなさい」
「え?」
「この前、取り乱した・・・私、混乱して、クラーリィさんに八つ当たりした・・・
 ごめんなさい・・・!」
テュービュラーの瞳から、涙が一粒零れた。

「気にするな」
クラーリィは優しく、テュービュラーに言う。
「・・・」
「オレも言葉が足りなかった・・・まだこっちの社会に入って少ししか経たないお前に、
 無理矢理理解を求めるなんてこと・・・無茶に決まってるのに、配慮が足りなかった」
「・・・クラーリィさん・・・」
「すまない・・・昔から、不器用でな」
苦笑いするクラーリィ。
テュービュラーはそれを見て・・・涙の溜まった瞳で、少しだけ微笑んだ。
「クラーリィさん・・・私、人間の気持ち、分かるようになる?」
テュービュラーの瞳から、また涙が零れる。
「・・・ああ、きっと」
クラーリィは父親のように、テュービュラーの頭を撫でた。


その時・・・テュービュラーは、ある事に気づいた。

クラーリィの手。
それは、人間の手の感触ではなかった。
金属ではないけれど、固く冷たい感触。
テュービュラーの中で、すぐに答えは浮かぶ。

「手・・・もしかして・・・」
テュービュラーがおそるおそる尋ねると、クラーリィは頷く。
「・・・ああ、オレの手は義手だ」
嫌がることも、隠すこともなく、クラーリィはそれを告げる。
「そんな・・・どうして・・・」
「20年前、大魔王ケストラーと人間が戦ったあの大戦・・・
 それでオレは、両手と両足を失った」
「両手両足!?」
テュービュラーはクラーリィの手足を見る。
普通に歩き普通に物を持ち運んでいたから気づかなかったけれども、
今こうやって直に触れてみて、確かにクラーリィの手は義手だった。
そして同じように足も・・・
自分もその一員だったということは分かっていながらも、
テュービュラーはクラーリィから手足を奪った魔族を憎いと思った。

「痛かった?怖かった?」
テュービュラーは、そっと尋ねる。
クラーリィは、穏やかに答えた。
「・・・ああ・・・でもそれは戦いの後のことだ・・・
 その時は夢中で、そんなの気にする余裕もなかったからな」
「やっぱり・・・苦しかった?」
「ああ・・・でも、今は義手義足になっても、ちゃんと生きている」
そう言って微笑むクラーリィ。
けれどもテュービュラーは切なかった。

「戦いの後・・・苦しかった?」

そう言うのが、やっとだった。

クラーリィが20年以上前から大神官としてスフォルツェンドの魔法兵団を率いていたことは、
テュービュラーだって知らないはずのない有名な事実だった。
けれども戦いで、クラーリィは両手両足を奪われ、突然不自由な身体へと変えられてしまった。

それまでの自分から、いきなり大きく違うものへと変わってしまった。
良くも悪くも、クラーリィの生活は大きく変化したのだ。
今まで魔族と戦っていた日々が終わった。
魔法兵団の最前線で戦い続けていたあの日々が終わりを告げた。
クラーリィも、同じように・・・苦しんだのだろうか。
人間になった、人魚姫のように。

そして、人間と共に生きることを選んだ・・・・自分のように。





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