灰色の低い雲。
雲の切れ間から、ちらちらと粉雪が舞い降りる。
私は、手をこすり合わせながら、
ぼんやりと冬の寒空を見上げた。
「・・・・・・」
約束の場所に近づけば近づくほど、
足取りが重くなっていく。
彼と、よく待ち合わせをしていたあの時計台の下。
・・・・・・彼は、もう着いているのだろうか。
事の始まりは、おとといミュゼット先生から頂いた一通の電話だった。
先生は、若干興奮した様子で息が上がっていた。
「ヴィオリーネちゃん、今時間大丈夫かしらっ?」
私は、きょとんとしたまま時計に目をやる。
いつも見ている恋愛ドラマの時間までに、まだ時間はあった。
「はい、大丈夫ですけれど・・・・・・先生どうされたのですか?」
思わず聞かずにはいられない。
だって、私のバレエの恩師でもあるミュゼット先生は、
普段とても落ち着いていて、ちょっとしたことでは全く動じないんだもの。
それだけに、私は先生の様子に少しびっくりした。
しかし、この後聞かされる内容に、私は先生以上に驚愕するのだった。
「ヴィオリーネちゃん聞いて。とってもいいニュースよ。
この間のコンクールを見にいらした、イギリスのバレエ学校の先生がね、
ヴィオリーネちゃんの踊りをとても気に入って下さったの」
「イギリスの先生が?!」
思わず声が裏返ってしまう。
国内の大手バレエ学校の○○先生とか△△先生のお呼びは
何度か、かかったことはある。
だけど、イギリスって・・・・・海外じゃない!
私は呆然としたまま、その場に立ち竦んだ。
急な知らせというのは、どんな場合であるにせよ呆然とするものだ。
まして海外なんて、一部の携帯電話しか繋がらない圏外の世界。
私が声を出せないでいると、
ミュゼット先生は、最も重要な内容を口にした。
「それでね、その先生がヴィオリーネちゃんに、ロンドンで勉強してみないか?
っておっしゃって下さったのよ。夜分急な電話でごめんなさいね」
それを聞いた私は、さらに目を大きく見開いた。
「えっ・・・ロンドン?・・・・・勉強??」
それが何を意味しているのか、
私は分かりすぎるほどに分かってしまった。
だって、それはつまり・・・・・・
「先生、それって・・・・・・・」
「そうよ、ヴィオリーネちゃん。留学のお話よ」
・・・・留学・・・・・
・・・・・・・・・私が・・・・・!?
留学。
それは、幼い頃からずっと憧れてきた夢。
パリやロンドンの学校でバレエの勉強ができたら、
思いっきり踊れたら・・・・ってずっと夢みてきた。
だけど、それは願えばすぐに叶うというように、たやすく出来てはいない。
まず、留学するには資金がいる。
よっぽどの協力者がいない限り、金銭的に厳しい。
そして何よりも、留学に伴う実力がついていなければ、
現地に行ったとしても、レッスンについていけないのは目に見える。
留学というのは、トップバレリーナへの片道切符でもあるが、
それを手に入れるまでに、過酷な努力と強運とが要求されるのである。
私も、今まで楽しくも厳しいレッスンを積み重ねてきて、
何度もコンクールや発表会に出場した。
今はまだ、伸び悩んでいる時期でもあるから、
留学など程遠く、夢のまた夢の話だと思っていた。
だから、先生の言葉を聞いても、いまだに実感が湧かないのだ。
「先生、ほ・・・本当ですか?」
「本当よ・・・。あなたの努力と才能が外国の先生に認められたのよ」
ミュゼット先生は、先程よりも落ち着いてきたのか、
いつもの優しい柔らかな声色でそう語った。
一方私は、逆に興奮で頭が沸騰寸前だった。
留学のお話が、こんなにも早く来るなんて思ってもいなかったから、
喜びと嬉しさで息が出来なかった。
うっすらと、目の前の景色が涙で滲んでいるのがわかる。
・・・・・・夢が広がる。そして、どんどん大きくなっていく。
すると、ふと私の脳裏にある一人の男性がよぎった。
いつも私の隣で微笑んでるあの人。
その瞬間、私の笑顔は咄嗟に凍りついた。
「・・・あ・・」
「どうしたの?」
「・・・・あ、いえ・・・・あ、先生。留学って・・・・その・・・・いつから」
どうしよう・・・。
心臓が静かにドクンドクンと波打ってる。
さっきの喜び踊る興奮とは違う。
何か不安が伴うような緊張感が押し寄せてくる。
ある事実に気づいてしまったから。
「留学」が他に何を意味するものなのか、気づいてしまったから・・・・・・。
「来月からいらっしゃいっておっしゃっるんだけれど、
・・・・・やっぱり急だったかしら」
先生は、私の動揺を感じ取っているようだった。
「いいえ。今すぐにでも行きたいんです・・・・・・でも・・・・・・」
留学。
それは、つまりこの場所から離れることも意味する。
生まれ育った大好きな町、
沢山の友人に大好きなミュゼット先生。
・・・・・・そして・・・・・・・
私は、声に詰まった。
その先が言葉にできない。
少しでも気を緩ませたら、途端に崩れてしまいそうだった。
だって、留学するということは、
・・・・・クラビさんとも離れることを意味するんだもの。
会話が続かず、しばらく無言の状態が続いた。
先生は、私の気持ちを察してくれたのか、
「いいのよ、無理しなくて・・・」
と優しい口調でなだめてくれた。
その「いいのよ」という言葉の中には、多くの優しいいたわりがあった。
先生とは長い長い付き合い。
私の考えてることなんてお見通しなのかもしれない。
「・・・・うっ・・・・」
思わず嗚咽が込み上げてしまう。
めいっぱいの喜びに、めいっぱいの悲しみ。
私は、その双方の気持ちをうまく言葉に出来なくて、
涙がとめどなく溢れてきた。
涙混じりの嗚咽は、電話越しのミュゼット先生にも聞こえてるようだった。
「先生・・・・わたし・・・・ううっ・・・」
ああ・・・また声が詰まってしまう。
電話口で泣いても、先生に迷惑をかけるだけなのに。
「大丈夫・・・?」
「せんせ・・・ごめんなさ・・・・」
「いいのよ・・・気にしないで、ね?」
先生は、電話口からお母さんのようになだめてくれる。
その温かい声に、私は少しだけ心が軽くなった。
「ヴィオリーネ、お返事はいつでもいいからね。
今じゃなくてもいいのよ?急なことでビックリしちゃったのでしょう・・・
でも、大丈夫だからね・・・」
「・・・・・・っ」
「もし、あなたの心が定まった時、また連絡をくれるかしら。
・・・・・・貴女にとって、これはきっと大きな選択だと思う。
だからこそ、ゆっくり・・・じっくりと相談して決めましょうね。
勿論、クラビくんとも相談した方がいいと思うわ」
ミュゼット先生は、私とクラビさんとの仲を知っている。
私とクラビさんは、この間付き合い始めたばかりの
初々しい恋人同士。
いえ、恋人というような雰囲気はまだないのかもしれない。
だけど、私にとっての彼の存在は大きいし、
何よりも、一緒にいて、とても居心地がいい。
そして、いつだって私を支えてくれた。
そう、私の頭は、彼のことだけで占めていた。
ミュゼット先生との電話を終えたあと、
私は一人ベッドの上に仰向けになり、ぼんやりと考えた。
留学してからの自分のこと。
そして、留学してからの彼のこと。
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