第一話



魔族も人も心を持っていた。
嘗て魔族は大魔王ケストラーに心まで屈し、人間を殺すことに快楽を得て生きていたが、
決して今は・・・・心は屈していない。


テュービュラーはただ暖かい光の中にぼんやりと浮かんでいた。
光射し込む暖かい海の中の様な、ぼんやりとした空間に。
テュービュラーは自分の手を見る。
魔族の翼が消え、高かった背も低くなり・・・数年前の姿に、退行している。
テュービュラーはわかっていた。
ああ、これは自分が魔界軍に入る前の姿なのだと。
リコーダーと戦い、魔族も人間も同じような心を持っていたと知って・・・
天使ケストラーの浄化の光を浴びて、それから自分はこうして漂っている。
暖かい海の中を。
時折空気の泡が、周囲を漂う。


ふと、テュービュラーの耳に・・・綺麗な声が聞こえてきた。
優しい、女性の声だった。

「王子様にはお姫様の姿はもう見えませんでした・・・
 けれども、王子様は優しいそよ風を確かに感じました」

(・・・本の、朗読?)
テュービュラーはその声のする方向へと、ゆっくりと向かう。
どうしてだかわからないが、その声にとても惹かれたのだ。




そして、テュービュラーは現実に戻ってきた。

「起きたのか・・・?」
先ほどの女性の声とは対照的な、低い男性の声。
目の前の映像が、少しずつ鮮明になってゆく。
自分の顔を覗き込む、男の顔。
テュービュラーは、その男に見覚えがあった。
金色の長い髪の毛に、眼鏡。

「大神官・・・クラーリィ・・・?」

テュービュラーが尋ねると、スフォルツェンドの大神官クラーリィは、静かに頷いた。
「そうだ・・・今までの記憶は残っているのか?」
そう尋ねられ、テュービュラーは考える。

自分はペルンゼンゲルの部下で、魔界軍の一員。悪魔軍王だった。
ペルンゼンゲルに恋焦がれ、嫉妬の気持ちでリコーダーと戦って。
けれどもリコーダーと自分には、同じような心があると知って。
そして・・・天使ケストラーに浄化されて・・・今に至る。
わかっている、覚えている。
けれども・・・・けれども・・・

「・・・覚えている・・・けど・・・」
俯くテュービュラーに、クラーリィは言った。
「実感がないのか・・・?」
するとテュービュラーは小さく頷いた。

そう、今までのことは覚えている。
けれどもまるで夢の中の出来事のように、実感がないのだ。
テュービュラーは困惑する。
すると、クラーリィは言った。

「・・・お前は無垢な状態だと天使ケストラーは言っていた・・・
 お前は生まれ変わったんだ、だから今までのことは深く考えるな・・・
 過ぎたことよりも、これからのことを考えるようにしろ」

クラーリィの言葉を、テュービュラーは静かに聞き入れる。
そして、黙って頷いた。
よくは分からないが、あの天使ケストラーはリコーダーのことを『孫』と言っていた。
あの者たちに家族の情があるのならば・・・
それはこういうものなのかもしれない、とテュービュラーは思った。
そして、それを心地良いと思えるように生まれ変わったのは悪くない・・・と感じた。


「・・・お前は体力が戻るまで、もう少し休んでいろ・・・
 ここはお前の部屋だ、自由に使うといい・・・
 右のドアは洗面所と風呂、あのドアがトイレだ・・・
 クローゼットにはいくらか服が入っているから、着替えたければ使うといい」
クラーリィは部屋の説明をする。
テュービュラーはゆっくり部屋を見渡した。
ベッド、机、物を入れる小さな引き出し。
すっきりした、小さな部屋だった。
そしてテュービュラーは、ベッドの傍の机の上に鏡を見つけた。

「・・・」
確かに自分は、数年前・・・魔界軍に入る前の姿に、退行していた。
自分が魔族だということを示すのは、額に埋め込まれている黒い宝石のみ。
魔族の翼がなくなり、耳も人間と同じ形になり、体つきも幼くなり、表情もどこか幼くなり・・・
いや、自分の感情も、昔に退行したのではないかとテュービュラーは思った。

でも、決して「昔に戻った」のではない。

新しい自分へ生まれ変わったのだ・・・と、テュービュラーは考える。
昔では考えられなかったが、今はとても素直にクラーリィの言葉を受け止められていた。
それが確かに、自分は生まれ変わったということなのだろう。

「私は・・・テュービュラー・・・何の、どんな、テュービュラー・・・?」

テュービュラーは思わず呟いた。
あらゆる可能性を持つと同時に、未来も見えない自分。
不安と期待が入り混じった複雑な気持ちで、鏡を見つめるテュービュラー。
そんなテュービュラーの様子を、クラーリィは静かに見守っていた。



突然ドアが開く音がして、テュービュラーは驚く。
「あ、いたー!」
顔を出したのは、何人もの子供たちだった。
「人間の・・・子供?」
テュービュラーは首を傾げる。
子供たちは部屋に次々に入ってくると、クラーリィに駆け寄った。
「ねーねー、魔法教えてー」
「約束したでしょー!」
「昨日言ったよねー!」
子供たちはクラーリィに口々に言う。
クラーリィは最初は少し圧倒されていたが、すまなそうに言った。
「すまないお前たち、今は手が離せないんだ・・・」
クラーリィは子供の頭を撫でて、謝る。
「えー!?」
「どうしてー!?」
子供たちが不満そうに言った。

すると、女性の声が響いた。
「我侭を言っちゃいけないわ・・・クラーリィ隊長は、そのお姉ちゃんの看病をしなくてはいけないの」
子供たちを宥める、母親のような声。

「・・・・!」
テュービュラーは驚いた。
そう、自分が夢の中で聞いた声は、あの声だった。
自分をこちらの世界に連れ戻してくれた、優しい女性の声・・・
あれはこの女性の声だったのだ。

「あのお姉ちゃん病気なの?」
「そうよ、クラーリィ隊長が倒れているあの子をここに連れてきたの」
「具合悪いの?」
「だいぶよくなったみたいだけど、もう少しお休みが必要ね」
「お休み必要なの?」
「そう、だからここで騒いじゃいけないわ」
子供たちの問いに、ひとつひとつきちんと答えるその女性。
子供たちもその女性の言うことを聞いて、おとなしくなった。
優しそうな女性だった。
クラーリィとは少し違った色の、長くてふわふわの金色の髪の毛。
色白でほっそりした感じだが、決して冷たさは感じない。
そして、大きな瞳は優しさを湛え、表情は愛に満ち溢れている・・・。

(母親・・・?)
テュービュラーは何故かそんな気がして、その女性を見ているとあたたかい気持ちになった。
あの夢に見た暖かい海は、赤ん坊が生まれる前の光景を示していたのではないか。
ならば、自分をこの世に呼び寄せてくれたあの声は・・・
母を意味していているのではないか。
テュービュラーは、自然とそう思った。


その女性は次にクラーリィに話しかける。
「じゃあこの子供たちは、私が相手をしているから・・・
 でもクラ・・・約束、守ってあげてね・・・
 少しだけの時間でいいから、子供たちに魔法を教えてあげて・・・
 子供たちにとって、約束はどんな小さな約束でも・・・大切なことだから」
その女性は、クラーリィのことを『クラ』と呼んだ。
テュービュラーにも、二人は親しい間柄なのだということはわかった。
「ああ、わかっている・・・感謝する、ミュゼット」
クラーリィは優しい表情で、その女性に言った。


「ミュゼット・・・・」
テュービュラーは思わず、その名前を繰り返していた。





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