魔族も人も心を持っていた。
嘗て魔族は大魔王ケストラーに心まで屈し、人間を殺すことに快楽を得て生きていたが、
決して今は・・・・心は屈していない。
テュービュラーはただ暖かい光の中にぼんやりと浮かんでいた。
光射し込む暖かい海の中の様な、ぼんやりとした空間に。
テュービュラーは自分の手を見る。
魔族の翼が消え、高かった背も低くなり・・・数年前の姿に、退行している。
テュービュラーはわかっていた。
ああ、これは自分が魔界軍に入る前の姿なのだと。
リコーダーと戦い、魔族も人間も同じような心を持っていたと知って・・・
天使ケストラーの浄化の光を浴びて、それから自分はこうして漂っている。
暖かい海の中を。
時折空気の泡が、周囲を漂う。
ふと、テュービュラーの耳に・・・綺麗な声が聞こえてきた。
優しい、女性の声だった。
「王子様にはお姫様の姿はもう見えませんでした・・・
けれども、王子様は優しいそよ風を確かに感じました」
(・・・本の、朗読?)
テュービュラーはその声のする方向へと、ゆっくりと向かう。
どうしてだかわからないが、その声にとても惹かれたのだ。
そして、テュービュラーは現実に戻ってきた。
「起きたのか・・・?」
先ほどの女性の声とは対照的な、低い男性の声。
目の前の映像が、少しずつ鮮明になってゆく。
自分の顔を覗き込む、男の顔。
テュービュラーは、その男に見覚えがあった。
金色の長い髪の毛に、眼鏡。
「大神官・・・クラーリィ・・・?」
テュービュラーが尋ねると、スフォルツェンドの大神官クラーリィは、静かに頷いた。
「そうだ・・・今までの記憶は残っているのか?」
そう尋ねられ、テュービュラーは考える。
自分はペルンゼンゲルの部下で、魔界軍の一員。悪魔軍王だった。
ペルンゼンゲルに恋焦がれ、嫉妬の気持ちでリコーダーと戦って。
けれどもリコーダーと自分には、同じような心があると知って。
そして・・・天使ケストラーに浄化されて・・・今に至る。
わかっている、覚えている。
けれども・・・・けれども・・・
「・・・覚えている・・・けど・・・」
俯くテュービュラーに、クラーリィは言った。
「実感がないのか・・・?」
するとテュービュラーは小さく頷いた。
そう、今までのことは覚えている。
けれどもまるで夢の中の出来事のように、実感がないのだ。
テュービュラーは困惑する。
すると、クラーリィは言った。
「・・・お前は無垢な状態だと天使ケストラーは言っていた・・・
お前は生まれ変わったんだ、だから今までのことは深く考えるな・・・
過ぎたことよりも、これからのことを考えるようにしろ」
クラーリィの言葉を、テュービュラーは静かに聞き入れる。
そして、黙って頷いた。
よくは分からないが、あの天使ケストラーはリコーダーのことを『孫』と言っていた。
あの者たちに家族の情があるのならば・・・
それはこういうものなのかもしれない、とテュービュラーは思った。
そして、それを心地良いと思えるように生まれ変わったのは悪くない・・・と感じた。
「・・・お前は体力が戻るまで、もう少し休んでいろ・・・
ここはお前の部屋だ、自由に使うといい・・・
右のドアは洗面所と風呂、あのドアがトイレだ・・・
クローゼットにはいくらか服が入っているから、着替えたければ使うといい」
クラーリィは部屋の説明をする。
テュービュラーはゆっくり部屋を見渡した。
ベッド、机、物を入れる小さな引き出し。
すっきりした、小さな部屋だった。
そしてテュービュラーは、ベッドの傍の机の上に鏡を見つけた。
「・・・」
確かに自分は、数年前・・・魔界軍に入る前の姿に、退行していた。
自分が魔族だということを示すのは、額に埋め込まれている黒い宝石のみ。
魔族の翼がなくなり、耳も人間と同じ形になり、体つきも幼くなり、表情もどこか幼くなり・・・
いや、自分の感情も、昔に退行したのではないかとテュービュラーは思った。
でも、決して「昔に戻った」のではない。
新しい自分へ生まれ変わったのだ・・・と、テュービュラーは考える。
昔では考えられなかったが、今はとても素直にクラーリィの言葉を受け止められていた。
それが確かに、自分は生まれ変わったということなのだろう。
「私は・・・テュービュラー・・・何の、どんな、テュービュラー・・・?」
テュービュラーは思わず呟いた。
あらゆる可能性を持つと同時に、未来も見えない自分。
不安と期待が入り混じった複雑な気持ちで、鏡を見つめるテュービュラー。
そんなテュービュラーの様子を、クラーリィは静かに見守っていた。
突然ドアが開く音がして、テュービュラーは驚く。
「あ、いたー!」
顔を出したのは、何人もの子供たちだった。
「人間の・・・子供?」
テュービュラーは首を傾げる。
子供たちは部屋に次々に入ってくると、クラーリィに駆け寄った。
「ねーねー、魔法教えてー」
「約束したでしょー!」
「昨日言ったよねー!」
子供たちはクラーリィに口々に言う。
クラーリィは最初は少し圧倒されていたが、すまなそうに言った。
「すまないお前たち、今は手が離せないんだ・・・」
クラーリィは子供の頭を撫でて、謝る。
「えー!?」
「どうしてー!?」
子供たちが不満そうに言った。
すると、女性の声が響いた。
「我侭を言っちゃいけないわ・・・クラーリィ隊長は、そのお姉ちゃんの看病をしなくてはいけないの」
子供たちを宥める、母親のような声。
「・・・・!」
テュービュラーは驚いた。
そう、自分が夢の中で聞いた声は、あの声だった。
自分をこちらの世界に連れ戻してくれた、優しい女性の声・・・
あれはこの女性の声だったのだ。
「あのお姉ちゃん病気なの?」
「そうよ、クラーリィ隊長が倒れているあの子をここに連れてきたの」
「具合悪いの?」
「だいぶよくなったみたいだけど、もう少しお休みが必要ね」
「お休み必要なの?」
「そう、だからここで騒いじゃいけないわ」
子供たちの問いに、ひとつひとつきちんと答えるその女性。
子供たちもその女性の言うことを聞いて、おとなしくなった。
優しそうな女性だった。
クラーリィとは少し違った色の、長くてふわふわの金色の髪の毛。
色白でほっそりした感じだが、決して冷たさは感じない。
そして、大きな瞳は優しさを湛え、表情は愛に満ち溢れている・・・。
(母親・・・?)
テュービュラーは何故かそんな気がして、その女性を見ているとあたたかい気持ちになった。
あの夢に見た暖かい海は、赤ん坊が生まれる前の光景を示していたのではないか。
ならば、自分をこの世に呼び寄せてくれたあの声は・・・
母を意味していているのではないか。
テュービュラーは、自然とそう思った。
その女性は次にクラーリィに話しかける。
「じゃあこの子供たちは、私が相手をしているから・・・
でもクラ・・・約束、守ってあげてね・・・
少しだけの時間でいいから、子供たちに魔法を教えてあげて・・・
子供たちにとって、約束はどんな小さな約束でも・・・大切なことだから」
その女性は、クラーリィのことを『クラ』と呼んだ。
テュービュラーにも、二人は親しい間柄なのだということはわかった。
「ああ、わかっている・・・感謝する、ミュゼット」
クラーリィは優しい表情で、その女性に言った。
「ミュゼット・・・・」
テュービュラーは思わず、その名前を繰り返していた。
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